かみがた

今週のお題「髪型」


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とりつくろうことをやめて

このお題に向き合うと

どうしても、あの子のくせ毛が思い浮かぶ

 


たぶんきっと、お互いを心底憎み合っているわけでもなくて、 


例えば今わたしが、あの時はごめんね、気にせずやっていこう、なんてLINEして、

小洒落たお店でお酒を入れつつ思い出にしてしまえば、

あの日の前みたいに戻れるはずなのに



それなのにどっちもそれをしないのは

負けず嫌いなのか、それとも意地なのか、

それともあれがとっても大事なことだったからなのか   



どんな理由にせよそれをしないかぎり

わたしたちはどこかで互いの存在が

引っかかって、無駄にTwitterのタイムライン上で気にしてしまったりして、

あら探すなんてほどでもないけど、

でもどこで勝ちたいって思ってしまうんだろうね




だからわたしは

色白で目がぱっちりしてて可愛らしいあの子の、

お世辞にもかわいいとは言えない癖毛を無理やり押さえつけたあの髪型を

なんだか思い出してしまうんだ




気にしない、ということが出来るようになったはずだったのに、

やっぱりまだ思い出してしまう



時間は経ったし、

いまのわたしはそことは違う場所でいきている、

だから許すことはできるはず



許せばたぶんこういう気持ちにならないけれど

どうしても許せないのは

許せないから、ただそれだけの理由な気がする



おさえるこころ 2

今週のお題「恋バナ」


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「んで、そっちは最近どうなの?」

渋谷の喧騒から少し足を伸ばしたところにあるこのカフェは、どことなくわたしたちが通っていた高校の美術室に似ている湿気っぽい雰囲気が気に入って、2人で近況報告会を開くときにはどちらかが言い出すわけでもなくここで、と決まっている。

わたしは向かい側に座る彼がカップにかけている、細くて長い指をぼーっと見つめていた。


最近。

相変わらず、相変わらずだ。


大好きな喫茶店でアルバイトをしながら、大学にいって、休日には好きな映画を観に映画館にいって、美術館にいって。



高校のときはよく部活の時間が終わっても、美術室に残って絵を描いていたわたしたち。


いまわたしは絵はやめてしまった。

彼は美術大学へ進学して、絵を続けている。

積極的にグループ展を行ったりしていて、いまでも、いや、まえよりも熱心に絵と向き合っているようだ。




「もう、絵はやんないのなー。残念。」


ざんねん、か。

わたしだって一ミリも後悔がないわけではない。


先を見据えすぎて、絵に未来を感じられなくて、普通の大学で、学問としてアートに関われたそれで十分だって、それの方がいいって思ったんだもの。

わたしにとっては描く楽しさよりも未来の選択肢を増やすことに価値があった、し、ある。



それになにより。


「おれ、お前の絵が好きっていうか、うーん、好きなんだけど、これずっと言ってるけど、なんか信頼、してるんだよ。だから、また描けたらって、思ってる。」



初めてそんな風に言われた時、絵に信頼ってなに?って思っていたけれど、彼はいたって真面目に話しているようにみえた。


だからこそ、わたしは絵を描くのをやめたのかもしれない。


絵に対してすごく真面目に取り組む彼に、わたしのきもちを気づかれたら、

きっとわたしのことを今のようには、見てくれないから。



最後まで残って絵を描く姿を、さいごまで見ていたくて、だから絵を描いていた。


絵を描くことは好きだったけれど、

それよりも、その姿見ることの方がしあわせだった。


同じ方向を向いているようで、向いていなかったなんてわかったら、きっとがっかりさせる。



だから、わたしはこのカフェで、いつも通り、彼の最近の彼女との喧嘩話とかだって、何食わぬ顔をして聞く。


がっかりさせてしまうくらいなら、

わたしの『信頼』という価値をなくしてしまうくらいなら、

わたしはさいごまで彼の恋バナにだって付き合う。


信頼してくれてるなら、それでいい。


それでいいと思う気持ちと、

例えばいまここで好きって言ったらどんな顔するのだろうかという気持ちが、

相変わらずせめぎあっている。



相変わらず。

相変わらず、わたしは彼のことが好きみたいだ。


おさえるこころ 1



『ゆうたー、ごはんできるわよー』

階段の下から声を張ると、ちいさくはーいという返事が聞こえた。

返事を確認するといそいそとキッチンへ戻り、ごはんと味噌汁をよそい、ダイニングテーブルへ運ぶ。

手作りしたリネン地のランチョンマットには、右下にそれぞれのイニシャルの刺繍を施してある。わたしのところには赤い刺繍でM。ゆうたのところには緑の刺繍糸でY。



ぴしっと敷かれたマットの上には、千切りキャベツと生姜焼きの載ったお皿を中心に、左下にはぴかぴかの白いごはん、その右側には湯気の立ち上る味噌汁。右上にさっき固まったばかりの杏仁豆腐、上にはこれまた手作りした真っ赤なイチゴのソースをかけてある。


完璧に作り上げられたテーブルは、わたしに安心感を与える。

これがわたしのやるべきことで、これをこなすことができるのはわたしだけだと、そう肯定してくれている気がするからだ。


テーブルの上には、何も皿の載っていないマットがもう1つある。青い刺繍でK。
テーブルの上の3つのマットが一気に埋まる日は殆どなく、青いKは大抵夜遅くに満たされる。

仕事が忙しい旦那は夜遅くに帰ってきては急いでごはんをかきこみ、風呂に入り、ほとんど何も言わずに布団に入る。

最初はそんな生活が心配で、さびしくて、もう少しゆっくり食べないと体に悪いわよ、とか、今日の煮物いつもより美味しくできたと思うんだけどどうかしら、とか、事細かに話しかけていたけれど、返事は大抵興味がなさそうなものだったり、ニュースをザッピングしていたりで、最近は話しかけることもやめた。さびしさも、ほとんどない。さびしさには慣れることができるらしい。

旦那のためにあたたかいお風呂とごはんを用意して待つ。これが最低限であり、わたしがやるべきすべてのことなのだ。
わたしの存在はそれ以上でもそれ以下でもないものとして、この家にあるのだろう。





ごはんの時はテレビをつけない、なんでルールがある家も多かったり、家族の会話のためにそれを促すところも多いけれど、わたしの家では夕飯時にはテレビをつける。いつからか、ゆうたとわたしの間で気まずい無言が続くようになり、それに耐えかねたわたしがつけはじめた。この時間は大抵がくだらないバラエティ番組。
テレビからの笑い声がやたらと響く。

ゆうたはテレビを見つめながら、時折小さく笑い声をあげている。わたしが丁寧に用意した食事たちを眺めることなく、ただそこにあるものを口に運んでいるように見える。

完璧なテーブルセットだって、ゆうたにとって大きな価値はなくて、彼にとっては口に入れて耐えかねるものならなんでもいいのかもしれない。

テレビばっか見てないでちゃんとごはん食べなさい、と言えたらいいのだけれど、テレビをつけはじめたのがわたしである手前、それを言うのがなんだか憚られる。

そんなゆうたの姿から、自分のマットの上に視線を移す。シワのないマットの上に置かれた、バランスのとれた食事とバランスのとれたテーブルセット。もやもやとした気持ちからくる息苦しさを解消させる。

これでいいの、これで。

生姜焼きを口に入れ、ゆっくりと味わった。




転がるように愛して。

  
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時が、とまっている

比喩でもなんでもなくて 
この感覚は、 
しっかりと、 
時がとまっている  
まさにその感覚


あの日、あの出来事から、
そんなつまづきがあるわけではなくて、
ただ、ゆっくりと、とまってしまった


とまってしまった
ことを、
理解するのに時間はかからない 

けれど

とまってしまった
ことを、
理解したら
わたしはじぶんを愛せなくなった 


夢中になって
ただ前にあるぴかぴかするものめがけて
ひた走ることは
じぶんを愛せないわたしには
幻想みたいな、もの


転がるように 愛したい  

転がるように 愛してあげたい 


ほんとうは

転がるように 愛して欲しい











中村佳穂 / リピー塔がたつ


覚悟のはなし。

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他人の頑張りを認められないこと

それを認めてしまうことは、じぶんの怠惰を認めること


夏の終わり、ぐんと下がった気温に寂しさと嬉しさを感じながら、じぶんにきいてみる

得たものはあるのか


得たものなんてなくたっていい

海の向こうのことを知らなくても、
なにかの先頭に立って率いることをしなくても、
それでもいいのだと、思っていた


けれど、
じぶんが選んだことに、
選んでやってきたことに、
胸を張れないのは、どうしてもかなしい

いつでも選択肢、その分かれ道に立っている  

どの道を選ぶも、じぶんの好きなように


好きなように、はいつでもわたしの首を絞める

「狂っているのに、こんなにも正しいのだから。」




村田沙耶香さん、芥川賞候補にあがってて、びっくり、な反面、そのうちあがるだろうな、となんとなく思っていた。候補作のコンビニ人間はまだ読んでないのだけれど、授乳、しろいのまちの〜、マウス、などを読んで。

雑誌maybe!の創刊号にも玉城ティナのグラビアと一緒に村田沙耶香の小説が載っていたりして、最近きてる感じもあり、村田沙耶香の小説読みたい欲がじわじわ蘇ってきて、消滅世界を読了。


帯などで思いっきり「セックス」や「家族」が消える…っていうような謳い文句が掲げられているけれど、それはもちろんそうでストーリーとしてはそういう部分もあるのだけれど、この話を通して村田沙耶香が伝えたかったことって、家族とかセックスが消えゆくことに関してではなかったのだろうなあと、わたしは思う。

みんなが信じて、迎合して、受け入れる「正常」は、ほんとうに正常なのでしょうか?世界が狂っていて、自分が狂っているという可能性を考えたことはありませんか?

そんな警鐘を鳴らしつつ、極めて部分を取り出しながらも普遍的なメッセージを伝えてきていた。

ここでいう「正常」は、利便性や機能性ばかりを追求した結果、面倒なものを科学の力で無理矢理に解決していくことを受け入れ、それをただ「便利である」としか考えずに喜ぶ現状であるだろう。よくわからないものをよくわからないままにして、流されてゆくおそろしさ…

って思ってたけど、なんだかこれ、違う気がしてきた。

最初のエピローグ、グラデーションになっていく世界でいつまでも途中の存在である主人公雨音、そして世界が変わり果てて自分も変わり果てた先で性とは無関係ながらにしてセックスに安堵感を覚えるフィナーレ。これらは全部、母から刷り込まれた教え(宗教?)が雨音の中で根強く存在し続けていたからで、結局どこへいってもいつまでたっても母からの呪縛から解かれることはないんだっていう、そこの大きさに飲み込まれていくしかないみたいなおそろしさがある…?

そして、そんな面倒で持て余すしかない母(親)の呪縛を解き放つ一面をも持つ意味で、家族や子育てに関した利便性を追求したあっちの世界が出来上がっているわけだけれど、でもその中で育つ『子供ちゃん』たちは没個性で完全に作り上げられたものと化してしまう。

となると、生まれてきたいのちは、育てられてきた過程に強く依存するしか術はなくて、自分の価値観で選び取ってるとしているものも、決して自分の価値観によるものでなくて、というかその価値観自体が作り上げられたものなんだ、ということが主題になるの、か、も?


読後感が最悪で、読み終わって1時間くらいグルグルと思考して、結局まとまらなくて、それでも村田沙耶香が魂をものすごい力で削っていることが感じられて、その断片を断片として受け取りながら、自分でまとめあげて納得させて、それでしばらく時間を置いてまた読むと、また違うまとめあげ方ができてしまう、というのが村田沙耶香作品の魅力で、最悪なところだよなあ、ほんとうに。

と、改めて思う。






おとなになる



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外へ出ると冷たい空気が体を包み、それが服の隙間から器用に入り込んでくる。冷たい空気が身体を突き抜けていくような感覚は、いつになっても苦手。
ただ、今年は例年よりも暖かい冬であるとどの気象予報士も口々に言っているからか、冬が寒いことを体感して少し安堵する。


ゆっくりとアパートの階段を下り、いつも通りの道をいつも通りのペースで歩く。
もう何回と歩いた道だから、あそこの信号が赤になっている時間が長いことも、だから少し遠くからでも青に変わったことを見つけたら走らなければいけないことも、頭を働かせなくとも体が動く。

そんな風にして最寄りの駅に着くと右から二番目の改札を通り抜け、ホームにおり立つ。乗り換えに楽な場所まで歩いて壁に背をつけて立ち、電車を待った。

今日もこのホームにはいつもと変わり映えのしない顔ぶれが揃っている。黒の上質そうなトレンチコートを着たサラリーマン風の男の人。くすんだ茶色のノーカラーのコートを着た、控えめだけれども奇抜な色のタイツを履く女の人。(今日は小豆色と臙脂色のちょうど真ん中のような色のものを履いている。)

そんな風に眺めていると、ここにいる人それぞれにそれぞれの向かう場所があって、そこで生まれる悩みや苦悩なんかがあって、それをやり過ごしていて、それぞれに生活があるのだと考えると漠然とさびしい気持ちになる。

さびしい。

わたしはここの誰の生活にも介入はできないし、介入もされない。
ここにいる人とほぼ毎日顔を合わせてはいるが声をかけあったことなどなくて、だから当然といえば当然なのかもしれないが、ここにいる人ではなくて、例えばわたしの恋人であったり友人であったりしたらわたしは彼らの生活とそれにまつわる物語に介入しているのかもしれないが、これはあくまでわたし側からの判断であり、彼らの生活だってわたし無しで回っているかもしれない。


そんな思考を吹き飛ばすかのように風がびゅんと吹き込み、ホームに電車が滑り込んできた。車体は大げさに息を吐き出し、わたしたちを受け入れる。


車内はたくさんの人で混み合っているのにも関わらず、人の話し声がいっさい聞こえてこない。朝の電車独特の空気が漂う。他人を拒絶し合っていることがひしひしと伝わってくるこの空気は、わたしの息苦しさを倍増させた。
こうやって毎日淀んだ空気の電車に乗り、わたしがやらなくてもやっても変わりないような仕事をこなしていることに、ホームで感じたのとおなじさびしさを感じた。
こんな風になりたかったわけではない。
こんな、わたしがやらなくてもやっても変わりのないようなことを積み重ねて、誰かの何かにもなれなくて、そうやって年をとっていくのだろうか。

どうやったら、誰かの何かになれますか。変わりのない存在ってなんですか。

小学生、中学生のころはわからないことは「先生」が教えてくれたし、わからないことを聞くことは良いことだとされていた。
でも今は、わたしのわからないことに寄り添ってくれる絶対的な存在はいなくって、答えは自分で探さなければならないのだ、ということを、ふと、考えついたりした。