おさえるこころ 1



『ゆうたー、ごはんできるわよー』

階段の下から声を張ると、ちいさくはーいという返事が聞こえた。

返事を確認するといそいそとキッチンへ戻り、ごはんと味噌汁をよそい、ダイニングテーブルへ運ぶ。

手作りしたリネン地のランチョンマットには、右下にそれぞれのイニシャルの刺繍を施してある。わたしのところには赤い刺繍でM。ゆうたのところには緑の刺繍糸でY。



ぴしっと敷かれたマットの上には、千切りキャベツと生姜焼きの載ったお皿を中心に、左下にはぴかぴかの白いごはん、その右側には湯気の立ち上る味噌汁。右上にさっき固まったばかりの杏仁豆腐、上にはこれまた手作りした真っ赤なイチゴのソースをかけてある。


完璧に作り上げられたテーブルは、わたしに安心感を与える。

これがわたしのやるべきことで、これをこなすことができるのはわたしだけだと、そう肯定してくれている気がするからだ。


テーブルの上には、何も皿の載っていないマットがもう1つある。青い刺繍でK。
テーブルの上の3つのマットが一気に埋まる日は殆どなく、青いKは大抵夜遅くに満たされる。

仕事が忙しい旦那は夜遅くに帰ってきては急いでごはんをかきこみ、風呂に入り、ほとんど何も言わずに布団に入る。

最初はそんな生活が心配で、さびしくて、もう少しゆっくり食べないと体に悪いわよ、とか、今日の煮物いつもより美味しくできたと思うんだけどどうかしら、とか、事細かに話しかけていたけれど、返事は大抵興味がなさそうなものだったり、ニュースをザッピングしていたりで、最近は話しかけることもやめた。さびしさも、ほとんどない。さびしさには慣れることができるらしい。

旦那のためにあたたかいお風呂とごはんを用意して待つ。これが最低限であり、わたしがやるべきすべてのことなのだ。
わたしの存在はそれ以上でもそれ以下でもないものとして、この家にあるのだろう。





ごはんの時はテレビをつけない、なんでルールがある家も多かったり、家族の会話のためにそれを促すところも多いけれど、わたしの家では夕飯時にはテレビをつける。いつからか、ゆうたとわたしの間で気まずい無言が続くようになり、それに耐えかねたわたしがつけはじめた。この時間は大抵がくだらないバラエティ番組。
テレビからの笑い声がやたらと響く。

ゆうたはテレビを見つめながら、時折小さく笑い声をあげている。わたしが丁寧に用意した食事たちを眺めることなく、ただそこにあるものを口に運んでいるように見える。

完璧なテーブルセットだって、ゆうたにとって大きな価値はなくて、彼にとっては口に入れて耐えかねるものならなんでもいいのかもしれない。

テレビばっか見てないでちゃんとごはん食べなさい、と言えたらいいのだけれど、テレビをつけはじめたのがわたしである手前、それを言うのがなんだか憚られる。

そんなゆうたの姿から、自分のマットの上に視線を移す。シワのないマットの上に置かれた、バランスのとれた食事とバランスのとれたテーブルセット。もやもやとした気持ちからくる息苦しさを解消させる。

これでいいの、これで。

生姜焼きを口に入れ、ゆっくりと味わった。