「狂っているのに、こんなにも正しいのだから。」




村田沙耶香さん、芥川賞候補にあがってて、びっくり、な反面、そのうちあがるだろうな、となんとなく思っていた。候補作のコンビニ人間はまだ読んでないのだけれど、授乳、しろいのまちの〜、マウス、などを読んで。

雑誌maybe!の創刊号にも玉城ティナのグラビアと一緒に村田沙耶香の小説が載っていたりして、最近きてる感じもあり、村田沙耶香の小説読みたい欲がじわじわ蘇ってきて、消滅世界を読了。


帯などで思いっきり「セックス」や「家族」が消える…っていうような謳い文句が掲げられているけれど、それはもちろんそうでストーリーとしてはそういう部分もあるのだけれど、この話を通して村田沙耶香が伝えたかったことって、家族とかセックスが消えゆくことに関してではなかったのだろうなあと、わたしは思う。

みんなが信じて、迎合して、受け入れる「正常」は、ほんとうに正常なのでしょうか?世界が狂っていて、自分が狂っているという可能性を考えたことはありませんか?

そんな警鐘を鳴らしつつ、極めて部分を取り出しながらも普遍的なメッセージを伝えてきていた。

ここでいう「正常」は、利便性や機能性ばかりを追求した結果、面倒なものを科学の力で無理矢理に解決していくことを受け入れ、それをただ「便利である」としか考えずに喜ぶ現状であるだろう。よくわからないものをよくわからないままにして、流されてゆくおそろしさ…

って思ってたけど、なんだかこれ、違う気がしてきた。

最初のエピローグ、グラデーションになっていく世界でいつまでも途中の存在である主人公雨音、そして世界が変わり果てて自分も変わり果てた先で性とは無関係ながらにしてセックスに安堵感を覚えるフィナーレ。これらは全部、母から刷り込まれた教え(宗教?)が雨音の中で根強く存在し続けていたからで、結局どこへいってもいつまでたっても母からの呪縛から解かれることはないんだっていう、そこの大きさに飲み込まれていくしかないみたいなおそろしさがある…?

そして、そんな面倒で持て余すしかない母(親)の呪縛を解き放つ一面をも持つ意味で、家族や子育てに関した利便性を追求したあっちの世界が出来上がっているわけだけれど、でもその中で育つ『子供ちゃん』たちは没個性で完全に作り上げられたものと化してしまう。

となると、生まれてきたいのちは、育てられてきた過程に強く依存するしか術はなくて、自分の価値観で選び取ってるとしているものも、決して自分の価値観によるものでなくて、というかその価値観自体が作り上げられたものなんだ、ということが主題になるの、か、も?


読後感が最悪で、読み終わって1時間くらいグルグルと思考して、結局まとまらなくて、それでも村田沙耶香が魂をものすごい力で削っていることが感じられて、その断片を断片として受け取りながら、自分でまとめあげて納得させて、それでしばらく時間を置いてまた読むと、また違うまとめあげ方ができてしまう、というのが村田沙耶香作品の魅力で、最悪なところだよなあ、ほんとうに。

と、改めて思う。