おとなになる



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外へ出ると冷たい空気が体を包み、それが服の隙間から器用に入り込んでくる。冷たい空気が身体を突き抜けていくような感覚は、いつになっても苦手。
ただ、今年は例年よりも暖かい冬であるとどの気象予報士も口々に言っているからか、冬が寒いことを体感して少し安堵する。


ゆっくりとアパートの階段を下り、いつも通りの道をいつも通りのペースで歩く。
もう何回と歩いた道だから、あそこの信号が赤になっている時間が長いことも、だから少し遠くからでも青に変わったことを見つけたら走らなければいけないことも、頭を働かせなくとも体が動く。

そんな風にして最寄りの駅に着くと右から二番目の改札を通り抜け、ホームにおり立つ。乗り換えに楽な場所まで歩いて壁に背をつけて立ち、電車を待った。

今日もこのホームにはいつもと変わり映えのしない顔ぶれが揃っている。黒の上質そうなトレンチコートを着たサラリーマン風の男の人。くすんだ茶色のノーカラーのコートを着た、控えめだけれども奇抜な色のタイツを履く女の人。(今日は小豆色と臙脂色のちょうど真ん中のような色のものを履いている。)

そんな風に眺めていると、ここにいる人それぞれにそれぞれの向かう場所があって、そこで生まれる悩みや苦悩なんかがあって、それをやり過ごしていて、それぞれに生活があるのだと考えると漠然とさびしい気持ちになる。

さびしい。

わたしはここの誰の生活にも介入はできないし、介入もされない。
ここにいる人とほぼ毎日顔を合わせてはいるが声をかけあったことなどなくて、だから当然といえば当然なのかもしれないが、ここにいる人ではなくて、例えばわたしの恋人であったり友人であったりしたらわたしは彼らの生活とそれにまつわる物語に介入しているのかもしれないが、これはあくまでわたし側からの判断であり、彼らの生活だってわたし無しで回っているかもしれない。


そんな思考を吹き飛ばすかのように風がびゅんと吹き込み、ホームに電車が滑り込んできた。車体は大げさに息を吐き出し、わたしたちを受け入れる。


車内はたくさんの人で混み合っているのにも関わらず、人の話し声がいっさい聞こえてこない。朝の電車独特の空気が漂う。他人を拒絶し合っていることがひしひしと伝わってくるこの空気は、わたしの息苦しさを倍増させた。
こうやって毎日淀んだ空気の電車に乗り、わたしがやらなくてもやっても変わりないような仕事をこなしていることに、ホームで感じたのとおなじさびしさを感じた。
こんな風になりたかったわけではない。
こんな、わたしがやらなくてもやっても変わりのないようなことを積み重ねて、誰かの何かにもなれなくて、そうやって年をとっていくのだろうか。

どうやったら、誰かの何かになれますか。変わりのない存在ってなんですか。

小学生、中学生のころはわからないことは「先生」が教えてくれたし、わからないことを聞くことは良いことだとされていた。
でも今は、わたしのわからないことに寄り添ってくれる絶対的な存在はいなくって、答えは自分で探さなければならないのだ、ということを、ふと、考えついたりした。